Holy Fool

つかの間の私を、永遠の私に捧げなさい Sri Anandamayi Ma


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自分をごまかすことはできない  ⑤ OSHO

自分をごまかすことはできない のタイトルで書いてきたが
わかったフリはしても 
「本当はわかってない」 ということを自分自身は知っている

井上義衍老師の「兎の毛ほどの疑い」という比喩
それくらいの疑いでもいつか自分をぐらぐらさせる
本当に 自分をごまかすことはできないものだ

私がはじめて手にしたOSHOの本は「ダイヤモンドスートラ」だった

それもイエスキリストのことをよく知りたくて
「聖書」のコーナーに行きなにげなく手にとった1冊だった
中身をよく見もせず「ダイヤモンドスートラ」という美しい響きにひかれて
その厚い本を買ったのだ
27年も前のことだから精神世界なんていうコーナーはなく
その時山形の書店に1冊OSHOの本があったということもミラクルだ

家に帰って開くと     「それゆえにスブーティよ・・」
この本 キリスト教じゃない! えっ もしかして仏教?
この表紙のおじさんは誰?どこか仏教の教祖さま?
本には小さく 「バグワン・シュリラジニーシ 金剛般若経を語る」と記されていた

それにしてもぜんぜんわからない  止めた 
1986年発行のその本にはあとがきやOSHO(そのころはバグワン・シュリラジラジニーシ)
についての記述がまったくなかった

すぐ本棚に置いたが その部屋に入るといつも誰かに見られてるような気がした
あっ これだな このおじさんだ
背表紙の顔が気になって なんとその本を見えないように他の本でかくしてしまった

それから私がインド旅行に行く3年後まで本は開かれないままだった
その時にはOSHOは生きていたけれど
本のひとがOSHOと知った前年に肉体を離れていた

まさか自分がそのひとの弟子になるとは!

井上老師には一度お会いしただけだけれど肌で禅の教えを感じた
OSHOが肉体を離れる前の講和は禅のシリーズだった

いまふと「ダイヤモンドスートラ」の本をめくると
なんとこんなページだった

 そしてあなたは死について何を考えようというのだろう?
 どうやって死について考えることができる?
 あなたは幾ばくかの事を聞き、幾人かの人が死ぬのを見たことはある
 だが、あなたはけっして死をみたことはない
 人が死んでゆくのを見るとき、あなたは何を見るのだろう?
 その人はもう息をしていない
 あなたが見るのはただそれだけだ
 その人の体は冷たくなった
 あなたが見るのはただそれだけだ
 それ以上に何がある?
 これが死だろうか?
 冷たくなっていく体、止まる呼吸
 それがすべてだろうか?
 その人間の内奥の核心にはいったい何が起こったのだろう?
 自分が死なずして知ることはできない
 自分が体験せずして知ることはできない
 未知なるものを知る唯一の道は、それを体験することだ
 だからこれらの概念は役に立たない         
                          (めるくまーる社「ダイヤモンドスートラ」より)

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自分をごまかすことはできない ④ マスター テディさん

金剛さん、テラさん、井上老師とすべてスピリチュアルTVのご縁だったが
3月25日の放送 テディさん「悟りへの道」はとても濃かった
http://www.ustream.tv/recorded/45334151

扉を開く鍵となることをたくさんわかりやすく話してくれた中で
ひとつ 私にとってオッということがあった

たとえばタロットカードをひいて解説を読む時
その時々でハートにタッチする箇所がちがうように
以前もそのことはきいていたかもしれないけれど 
その時はこのことばだった

「自分が作ったマイナス設定というのは遊ぶために設定したもの」

えっ 何? マイナス設定?
ってことは死を通して自分が遊ぶために
すばらしい師匠方と出会うために
死の恐怖がわきでてくるようにと この時期に私が設定したって訳?

そうおもったらなにか力が抜けて笑ってしまった

テディさんが「設定すればいいんですよ」と軽く笑って言っていた
ええーっ そんな簡単なことじゃないとおもうけどなあ・・・ぶつぶつ

しかし まてよ
そうか 私は 「設定したことを忘れて 起こることを驚く。 サプライズを楽しむ」
という設定をしているのかもしれない

友人がやってくれた電話でのグループ クリーンランゲージに参加したとき
「いま 起こってほしいことは何ですか?」の問いに
自分の口からでてきたのは
「私の頭で考えつかないことが起こってほしい」だった

はあ なんだか またまた笑ってしまうな

設定はひとそれぞれで 私たちからはハッピーにみえたり
残酷にみえたりするけれど いいも悪いもなく
ただ自分のオリジナルなこの世の遊びのために
設定したということか


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自分をごまかすことはできない  ③ 井上哲玄老師

浜松のカフェ寺では私たちのどんな質問にも井上老師が
竹を割るような気持ちよさでスパッと答えてくれた

大悟されたお方はシンプルで晴れやかで普通で
これぞ禅 迷いなし の存在まるごとだった

このとき私には「死」の質問がうかんでこなかった
ところが友人が浄土真宗、お念仏のことをたずねると
老師はあるお話を始められた

広島の浄土真宗の熱心な門徒に嫁いだお嫁さんの話だった
浄土真宗では悟った普通のひとのことを  妙好人という
かまどの中の赤く燃えた皿をおもわず取り出そうとして手を入れ
悟ってしまった若い嫁さん   

門徒の集まりで質問に答えることになり
「死んだらひとはどうなるのですか?」という学者さんの問いに
その方の胸ぐらをつかんで

「おまえさん 生きているのか、死んでいるのか、どっちなんだ?」

「生きてるんだったら 死んだ先のことは用がないじゃないか」
と言ったという

私は老師のその話をきいて 一瞬思考が止まってしまった

そして次にうかんだことは 
な、何なの! 私 質問してないのに 老師さまが答えてくれた・・・・・

テラさんに続いてのダメ押しが来た

さらには 帰り際 老師のお父上である師匠 井上義衍老師の本
「井上義衍老師語録」にサインをお願いすると
なんとわたしたちひとりひとりに違った言葉を書いてくださったのだ

 「 天心無我 」
生まれたときから私がいない という意味だそうだ

山形にもどって本のページをめくると
「天心無我」を義衍老師が語った言葉をみつけて驚いた

「人が生まれてくる時に、「私」というものを持って生まれてきたのではない。
 「私」がないから死ぬ対象がない。」

 私がないから死ぬ対象がない・・・・・

参りました!
降参とはこのこと

井上老師の禅の教えをじかに肌で感じてから
私は死が気にならなくなった
恐れがなくなったというわけではない

けれど恐れを感じ 次の瞬間
いま恐れを感じているか?と自分にたずねると
それは消えてなくなってしまっている
いま  ない
それが答えだ

死への恐れが私をここまで連れてきた

しかし
金剛さんからテラさん そして 井上哲玄老師 さらには肉体にいない義衍老師までも
ご登場願うという このすばらしい脚本を書いたのは
誰なのか

     
    http://tetsugen.jimdo.com/カフェ寺ライブ中継動画/


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自分をごまかすことはできない ② 賢者テラさん

死とはなにか なんてことをいつも考えていたわけではない
できればそんなこと気にせずにいたかった

でもあちらのほうから来たものだから無視できなくなった

東北の冬眠状態から浜松に行くことを決めたのは
2月24日に月2回ある井上哲玄老師の寺カフェ開催を知ったからだ
さらには前日23日には知井道通さんと賢者テラさんのコラボトーク
このスピリチュアルなごちそうが雪の山形から私を連れ出した

井上老師の映像をみたのは1月18日だった
5分で魅了された
これだ とおもった
何がこれなのか説明できなかったが
ここに確実に花が咲いている
香り高く疑いようのない花

そして浜松コラボトークの数日前 スピリチュアルTVはテラさんだった
http://www.ustream.tv/recorded/44047599
もうすぐ本人に会えるんだなとライブ放送をみるとチャットの質問に答えるテラさんがいた
「わたしたちは幻想に遊びにきている」
うん うん そうだよね

「死もまた・・」  えっ! 死
この死というフレーズに私はまたまた反応してしまった
死も幻想なの?もう テラさん いま軽く言っちゃったけど
死によって生という幻想が終わるんじゃないの?

私の内がざわざわしてきてなんとチャットに書き込みをしていた
「死もまた幻想・・・死は必ず起こる。  怖い。   怖いは過ぎ去る。
怖いは何度でもやってくる。  怖さを味わいたいのかな」

本当は この怖さをどうにかしてくれ と書きたい気持ちだったけれど
とにかく 私はこんな表現をしていた

するとテラさん
「この人に言いたい。死ぬ時でいいです」

「いま生きてるわけでしょ。安全圏にいて死ぬこと考えてるならやめたら。
 死ぬなら死ぬときに考えなさい。
 ディズニーランドにいるならば その中で楽しめばいい。
 今から考えて試験の対策にしても何の対策にもならない。
 死ぬことに対する対策なんて無理だからね。」

そうして イエス・キリストのことを語ってくれた
「イエス・キリストでさえいざ死ぬ立場になって
 死を覚悟していたのにとてつもなく怖かった。」

「でもそれはいっときだけでなんのことはなかった。
 そのときでいい。
 いくら考えて いくら対策たてても何の役にも への役にもたたない。」

「生きている。 いまできることを楽しむほうがいい。」

テラさんのこの返答に私は笑いがこみあげてきて
「死ぬ時のお楽しみですね」とチャットした

要するに私は答えをみつけて いま安心したかったのだ
そのことがわかれば安泰でいられる答え
完全に私がわかる、理解できる答え

テラさんがイエス・キリストのことを話してくれたことで
私の内でなにかが落ち着いた
あのイエス・キリストだって 瞬間こわかったんだなあ

これは私がどうこうできる問題ではないな
もう老師に「死」についての質問はしなくてもいい感じになっていた

ところが 大悟した方というのはサイキックにならざらをえないのではないか
とおもってしまうような展開が寺カフェで起こっていく
  


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自分をごまかすことはできない ① 韓国の覚者 金剛さん

どうにもこうにもこれまで問題にしなかったことが
ことあるごとにうかんでくるようになっていた

それは家族や親しい友人、そして自分もふくめて出かけようとする時など
なにか突然の事故や病気で死んでしまうのではないかという恐怖が瞬間やってくるようになっていたことだ

その感情は一瞬だけれども
これからあと何十年か生きる予定なのにオートマチックにやってくるとは・・・
決着をつけるときがきた みたいな感じがしてきていた

私は自分を精神的な人間だとおもっている
瞑想もしてきた
肉体の死は古い衣服を脱ぎすてるようなもの
本質は続いていく
OSHOは「あなたは身体ではない。マインドではない」と言っている

スピリチュアルな知識はしこたまあるけれど
本当に死を知っているのだろうか
死ぬ時、そして死んでからあとのことは死んでみないとわからない
前世があったとしても死んだあとの記憶は私にはない
わかってたはずだったのにな・・・

死について考えるとあまりにも怖いので
小学生の時に封印した

しかし今年になってから
気になっているものだから死に関してのあれこれがやたら目につくようになった

熱望は答えを探し出す  
この時が 「時」だったのだろう

スピリチュアルTVで韓国の覚者マスターゲート氏を知り
印可をうけた弟子のひとたちへのインタビューが「悟りへの道」ということでいくつかUPされていた
私は特に韓国のひとたちのことばが通訳をとおしても響くものがあった

まだみていない映像があって
それは「韓国の覚者」金剛さんという男性が語っていたものだった
http://www.ustream.tv/recorded/39891905
自分の目覚めの体験から話していく方が多い中 このひとは違っていた

「生きている間 死は必ず起こるようになっている
 生の終わりを話しているのではなく
 生の一部として もっとも現実的なものとして取り上げることができる
 死を理解しないのであれば どのような生を生きるにしても
 完全な生を生きることはできない」

エーっ なに?なに?なにーーーっ

自分の欲しい花があって その花の香りがしてきた
まさにそんな感じで
これをタイムリーと言わずして何と言おう

けれど金剛さんはすぐにはそのことに入っていかなかった

テディさんとのやりとりやチャットの質問に答えるなかで
自然と答える形になっていった
私はノートに彼のことばを書きとめた
書き留めることに意識をむけていたせいか あとで読んだときなにかがぼやけていた

たとえていうなら
この花園には確かに私の求めている花がある
香りもしている  でも霧がかかっていて見えない

書いたノートには
「私がいるから生は可能
 死も それ以前に私がいてこそ可能」

「完全である私が生、死以前にいたので 生と死の現象が起こる」

「うまれた私は必ず死ぬけれど 死という現象は起こるわけがない
 それ以前に私がいたということ
 死によって影響を受けるはずのない存在」
 
香りがしてきたけれど その香りを頭で解明しようとするものだから
ぼやけたままで 
その時の私は 霧の中に立っている状態だった

みたのは今年の2月はじめだったが映像は2013年10月のものだった

そのころ浜松の井上老師の寺カフェに行くことは決めていたようにおもう
井上哲玄老師のこともスピリチュアルTVで知った
死 このことは老師にもっともたずねてみたい問いだった

が その後 問いがそれ自体で展開するかのように動いて
私を連れ出しはじめたのだ


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「心と食物と人相と」

食事療法前はときおり鼻づまりがして
鼻をかんでもすっきりしなくて
鼻の奥が粘ついている感じがあった

気づくと いまはスースーとおっている

また足の裏をもむとある部分が触れただけで痛かったのに
それがなくなってしまった

視力は相変わらずのようだが
3週間目くらいから常に疲れていて重かった眼が
いまは違和感なく普通になった

食べ物は不思議だな

谷口雅春「心と食物と人相と」をアマゾンの古本から取り寄せて
読んだ
このところスピリチュアルTVのティディさん「金鶏塾」にはまって
よくyoutubeヴィデオなどみているのだが

その中で谷口雅春「生命の実相」をすばらしい本として
紹介していた(読むのなら1巻と7巻がおすすめということ)
ティディさんがこんなに言う「生命の実相」とは とアマゾンで
検索していたらこの本をみつけた

「生命の実相」のほうは注文しないでこの本を頼んでしまった

生長の家についてはくわしく知らないが
以前インドで言霊の本をみせてもらった記憶がある

初版は昭和51年
肉食の害というか 肉食がいかに不自然かを
仏教的な観点から説いている
ここ10年くらいの話ならわかるが
肉は栄養があって身体にいいと誰もがおもっていた頃に
この本は出版されたのだ

事情で肉食しなければならないときは
懺悔と感謝のきもちをもって食すると
たとえば牛肉なら牛が成仏する

同じ生き物でもなぜ魚は小魚ならOKなのか
野菜は食べてもらうことで命をつなぎ調和がとれる など
なるほど~という内容だ

顔も食べたものに似てくると書いてある

「生命の実相」の本は読むだけで病気がなおる
と言われたらしい

この「心と食物と人相と」の中にも
獄中のひとが谷口雅春氏の本を毎日読んでいたら
南京虫がすべていなくなった とか
その後処刑を免れることになった などの話がでてくる

この部分を読んだとき
以前なら奇跡ととらえていたことが
いわゆる個としての自分がいなくなって
ひとつ になっていたならそれもあるだろうなあ
と自然におもえた


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ヒカリと物質と

このYou Tube動画を久々にみつけた

1年半程前に「地球人のためのスピリチュアルレッスン vast stillness」
で紹介されていて、ジャマイカ人の彼のファンになった

この動画で彼はすごいことを言っている

なにがすごいかというと 
・・・・・
まったく うまく言えない

それは
まさに彼が言うところの
情報としてのヒカリをみていて
実際にはそれを体感してはいない 生きてはいないからだとおもう

私の頭がすごく抵抗するのを感じる

それを生きたら
生はシンプルで軽やかになるだろう

vast stillnessであと二つ彼の動画を紹介していて
とても興味深いものだったが まだみつけられないでいる

20代のころ 旅先で具合が悪くなり
ジャマイカ人のひとと会って元気になったことを思い出した

ジャマイカという土地にも惹かれる