Holy Fool

つかの間の私を、永遠の私に捧げなさい Sri Anandamayi Ma


3件のコメント

私を制限するのは私

DSCN0101

きょう1月18日は私のサニヤスバースディ。
OSHOサニヤシンであることが私を大いに自由にし、同時に
サニヤシンであることについての私の考えが
私を不自由にしてきたことに気づいた

そのことはうすうす気がついていたけれど
認めたくないというか あやふやにしていたいというか
そこは私の触れたくない部分だった

私の中には「理想のサニヤシン像」があって
OSHO像があって
長い間 それ であろうとした

そのことで時々気分がよくなったり
苦しんだりした

自分を制限してきたのは
誰でもない 私なのだが 
正確に言うと私の考え、思考、マインド 

OSHOではもちろんなく サニヤシン仲間でもなく
私の・・
私の!(うん これはいくら強調してもいい)考えだ

たとえ 誰かに サニヤシンとはこうあるべき と言われても
それを採用するかどうかは私にかかっている

OSHOが 「私の指をみるのではなく 
指し示しているものをみなさい」と言っているにもかかわらず 
私がその指の主にこだわっていたのは
指し示しているものへの確信なさ、熱望の足りなさだったとおもう

ブログを書くようになって
そのことが明らかになってきた

OSHOのことばを引用するとき
私はどこか誇らしげになり
チャネリングや引き寄せの本の情報
悟ったといわれてる他のマスターのことばに深く感銘をうけても
シェアしずらかった

そしてそのことに自分が制限されないのなら
まったく問題ではないが
自分でつくった考えに窮屈さをかんじるようになったのだ

瞑想的なサニヤシンにみられたかったのだ
OSHOサニヤシンのあり方みたいなものを勝手に作っていたのだ
そして私にとっての瞑想的なサニヤシンのアイディアは
笑ってしまうようなものだ

いったいぜんたい OSHOがそんなことを
望んだだろうか

これは私のストーリーである

OSHOに帰依しOSHOへの愛を表現し
生きるのは美しい

そして いま 私はどこに立っているのだろう
確かOSHOの講話に
川を舟でわたってきて陸に上がった時も
その舟を頭に乗っけているという話があったとおもう

陸を歩く時に必要のないデカすぎる舟は重たい
軽やかに進むために舟をおろそう

私がつくった私の考えという舟をおろす時だ

 

広告


コメントする

それは風のよう

DSCN0021

2014年が始まった

私はどう在りたいんだろう
と自分に問いかけたとき
昨年 和尚庵でやったクリーンランゲージのことが思い出された
  (ファシリテーターDASOのブログhttp://ameblo.jp/dasosaito/entry-11741642690.html 
「クリーンなコミュニケーションのためのクリーンランゲージ」)

be as you are
あなたらしくある    とは

それは何のよう?

パートナーが書きとめてくれた私の答えは

 自由  風のよう 心地よい
 動き、ひろがりを感じる  縛るものがない
 予測がない なんだか風がふいてきたような 気持ちよい

 ひとりで立っている 自分自身 風そのもの

 内側外側関係なくすべてにある
 限定されていない
 いたるところにある

 形はないけれど物質(草など)を通して形を表現している
 風がふくことで

そして最後にひらめいたように私が口にしたことば

 「決まった形はないけれど どんな形にもなれる」

自分で口にしてみてうまいこと言うなあと関心したのだった

そしていま
おもうのは

宇宙とのダンス

そよ風だったり 突風だったり
無風状態だったり いろいろあるだろうけど
そのつど その時々のダンスを踊りたいとおもう