Holy Fool

つかの間の私を、永遠の私に捧げなさい Sri Anandamayi Ma


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予期せぬこと

きょうは1月31日なので
なにか一ヶ月の〆 のようなものを
かいてみようとおもっていた

予期せぬことが起こり

いまはそのことを表現できない

というのも

腑に落ちた とおもい口にしたことが

いままた謎になってしまった

ということは

腑に落ちていなかったということか
それとも
この世は謎に満ちているということか

謎は謎のまま
これもまた過ぎ去るのか 

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ブログというもの

MIXIの日記に昨年10月に亡くなった父のことを13回にわたってUPした

書くのはなぜだかここではなくMIXIという感じがした

facebookのタイムラインもそうだがMIXIもタイムライン形式になってから
どうも居心地悪い感覚がして父のことを書いたら日記を最後にしようとおもっていた

アナログ的な自分がスピードについていけないのと
マイミクやfacebookともだちのいろいろが目にとびこんでくるので
時々落ち着かない感じになる

中毒状態になって無意識に画面をひらき
みつづけてしまうこともある

日記にいたっては読み手を意識しすぎて
書きたいことを書かず
書かなくていいことを書いてしまったり

OSHOサニヤシンということで
一時はOSHOのことをシェアするとどこかほっとして
チャネリング情報を書いたらなんておもわれるだろう とか
ブログ書くひまあったら創作しろ とか

なんていうか自己イメージを保持するために
自分で自分に制限をかける始末

これは自意識の強いあらわれだとおもう

このholyfoolではそんなことおかまいなしに
表現したいことを表現するぞ と
宣言のようにこう書いてしまうのも

自分がそうなりつつある気配を
感じだしているからかもしれないが

それはそれでいいヤ


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「私」がいないとき

以前OSHOメディテーションリゾートhttp://www.osho.com/ja/
のペインティンググループに

Who is inのファシリテーターのガンガが来きてくれて何回かワークをしてくれたことがある

パートナーを組んで「あなたにとって創造性とはなんですか?」のワークのあと
「自分の創造性を妨げているもの」
「自分の創造性をたすけるもの」を書き出すエクササイズがあった

10個ほど書き出して順番をつけるのだが
 私の「自分の創造性を妨げているもの」の第1番目が
 「自己イメージ」 だった

これには自分で書いて驚いた

他人が自分をどうおもっているのか
どんな人間としてみられているのか
けっこう気にしている自分がいるのは知っていたが

もっともじゃまをしているのは
自分が自分に対して抱いている自己イメージだ

その自己イメージも
他人から何度も言われたことで
おもいこんでしまっているものが多い

しかし
そんなイメージすら予期せずぶっ飛ぶ瞬間がある

まわりも驚くが本人が一番驚く

絵をみて あなたらしいね と言われるのは
うれしいような そうでもないような

本人が驚きたいんだ

私をとおしてこんなものがうまれてきたのか!

神は次の瞬間 予想のできない創造を自分でして
自分の創造に驚いているんだ

以下「バーソロミュー3」より

 『画家はどんなときに絵を描く幸せを感じるのでしょうか。
 絵を描いていて、画家という存在がなくなったときです。
 創作行為がおこなわれているのですが、使う色や絵筆の動きについて
 画家はいちいち考えてはいません。
 その瞬間、画家は無限の空間にいます。
 こうした異質の空間に入る画家の能力が高ければ高いほど、
 その作品は偉大なものとなります。」

私は
予期せず美しい絵がうまれたことに驚き
予期せずおどろおどろしい絵がうまれたことに驚き
その絵を瞬間こわしてしまったことがある

壊したあとで
私が美しいのでも
私がおどろおどろしいのでもないことに気づく

宇宙で表現されたがっていたなにかが
私をみつけ私に描かせたのだ

「私」がいて描いた絵と
「私」がいなくて描いた絵はすぐわかる

自己イメージから話がとんでいってしまったが
こんなふうに展開していくのはおもしろい

文章もまた
「私」がいたり「私」がいなかったりするのだろう

 


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理由などない

昨夜もまた「めがね」と同じ荻上直子監督の映画をBSでやっていた
「トイレット」である
http://www.cinemacafe.net/official/toilet-movie/

どの登場人物も個性的で愛すべきひとたちだけど

私が一番印象深かったシーン
モーリーのこの言葉にはやられた

自分でミシンを使って縫ったスカートをはいて
4年ぶりにピアノをひく彼

「なんでスカートはいてるの?」

「はきたいからはいているんだ
 
 弾きたいからひくんだ

 欲求に理由なんてない」

まったく  
時々このシンプルなことを忘れる

パニック障害があってずっと人前にでられなかった彼が
発表会でひくピアノもすごかったけれど

狂ったようにスカートを縫い続ける彼に
感動した

単に いまやりたいことをやればいいんだ
食べたいものを食べればいいんだ

それに対してなんで言い訳がましく理由をつけるんだろう

やることの理由

やらないことの理由

他人のおもわくを気にせず
さっさと いま 旬モードに入ってることを
やればいいんだ

なければやらないでいる
とことんやらないでいる

その とことんが
次のとことんへのスイッチになるかもしれない

しかし
「めがね」の小豆 
 モヘヤの毛糸
「トイレット」の足踏みミシン 

私の旬モードをくすぐるものばかりだった


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わけもなくしあわせな感覚

ここしばらく 数年
しあわせ 楽しい うれしい 弾む感じ わくわく
など
そういった幸福感には
必ず理由があった

理由があるから
その理由付けになるものを求めて
それはきりがなくなる

身体の内も外もひろがって
しあわせ感に満たされて
何の理由もみつけられないことが
最後にあったのは

13年くらい前だとおもう
ただ存在していることで
息をしているだけで笑いたくなるような
しあわせな感覚
理由がみあたらないことがおどろきだった

たぶん そのとき
なにかにつながったのだとおもう

その後もハッピーな瞬間はもちろん
たくさんあったけど
なにかしらの理由があった

きのうTVのBSでたまたまみた「めがね」という映画

こういう映画は ダイスキというひとと
あまり惹かれないひととにわかれるだろう

映画全体に流れるなんともいえない空気感

瞬間 あの理由のないしあわせ感に
つながった

わけもなくしあわせな しあわせ感を
細胞がおもいだした感覚だった

ああいう場所に行って
登場したひとたちのようにすごす というのともちがう

自分がいま
本当にほしいもの
大切にしたいものが
身体でわかった感覚

それ

いや そんなおもいをも超えた
それ には

理由がなく
恩寵のようにやってきて
去っていく

実際には決して去ったりしない
それ なのだが


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1717歩

FSCN2626

寒いと雪かきもピクニック気分では
できなくなってきている

そうだ 歩数チェックしてみよう
運動した感が感じられる

きりのいいところで止めたら
20分 1717歩だった

1717
1と7の組み合わせがおもしろかったので
エンジェルナンバーをみてみた

 【1と7のコンビネーション(117、771など)】
 これはあなたのやっていることは素晴らしいということを確認するものです。
 あなたは適切な道にいます。ですから歩き続けてください。これはあなたが自分の思考をうまく選択したと言うしるしであり、自分の目的にさらにしっかりと
 集中すべきであるということです。あなたの思考にはそれに適した感情を加えてください。例をあげるなら、あなたの人生の中にある贈り物に感謝を感じることです。
 感謝の気持は、あなたの人生の具現化のプロセスを早めてくれます。

もったいないメッセージを
ありがとうございます

エンジェルナンバーあなどれません

震災直後 私は数字でエンジェルからのメッセージにしたがい
東京から山形への飛行機チケット
手に入れ奇跡的に帰ることができました


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地図としてのヒューマンデザイン

FSCN2625

ヒューマンデザイン①②の続きとして
空白の部分ではなく
定義されたセンターについて書こうとおもっていたが

「つかの間の私を、永遠の私に捧げなさい」
アーナンダマイ・マーのことばがやってきて

永遠の私にとって
デザインは
つかの間の私が遊ぶための ツールだという感覚に
きょうは圧倒されている

ヒューマンデザインは地図のようなもので
それを知ることは
取り扱い説明書を読むようなものだろうか

それはつかの間の私を改善することではなく
そのまま受け入れ生きることを示している

ひととかかわること
自分のフィールド オーラ圏内にどんなひとがやってくるか
それによって 展開されていく劇 
織られていく織物の模様が
多様性をおび変化していくのだ

惑星の位置なども影響しているらしい

この本を読んで
なにかものごとが起きる時
理由はひとつではないことがわかった

昨年 私は事故にあい 
相手と自分のふたりだけの問題だとおもっていたが
エネルギー的には たくさんのことが起こっていて
まったく関係ないようにおもえることもそれに関わっていて

まさにそれを起こすために
すべてが完璧に配置されていたことを
直感として からだで感じた